ギナーン

Helmut Sinn

ヘルムート・ジン

第一次世界大戦の真っただ中1916年9月3日、旧・ドイツ領、現・フランス領のロレーヌ地方の町、メッツで3人姉弟の末っ子として誕生します。
幼少期、フランス空軍 (家から20kmの所にフランス軍の空軍基地があった。) の戦闘機が家の真上を飛んでるのを見上げてる内にパイロットへの憧れが芽生えました。遊びなんて無かったから、家の真上を飛ぶ飛行機を見る事が楽しみで、いつも空を見上げている少年だったそうです。
学生時代、機械が好きな彼は時計製造業にも興味が湧き、時計技師になることも考えていました。
しかし幼少の頃からの夢でもあるパイロットになること(飛ぶこと)が心を掴んで離さず…

1936年04月(ジン氏20歳)幼い頃からの憧れだった戦闘機のパイロットになるために、ドイツ国防軍のパイロット候補として空軍(ルフトバッフェ)に入隊しました。
翌、1937年にはいきなりグライダー1人乗りからの厳しい適正訓練が始まります。普段は専ら走る・泳ぐなどの体力訓練と座学。週末はグライダーを背負って山に登り、グライダーの飛行訓練。ほどなく偵察爆撃機ヘンシェル126に搭乗しての実戦を想定した訓練を行いました。とても辛い訓練でしたが、夢でもあった戦闘機での飛行は彼にとって一番の楽しみでもありました。 2年後の1938年にはHenschel 123(ヘンシェル123)複葉機を使用したより高度な飛行技能を取得しました。


1939年9月1日(22歳、23歳になる2日前) 第二次世界大戦、勃発。(1939年9月1日~1945年9月2日)
開戦と同時に長距離偵察飛行隊に所属し、主にドーヴァー海峡、バルカン半島、ロシア方面での偵察で作戦飛行に出動しました。 
戦線は熾烈を極め、作戦中幾度も危険な目に会いました。
1942年にはロシアでエンジン不調による不時着時に背骨を痛めたり、寒冷地では凍傷にもかかりました。しかし、その強運さと綿密な計算、高い技術により、飛行中に撃たれて墜落したことは一度もありませんでした。そして、この頃から生き抜くための道具として腕時計の重要性と愛着を改めて感じていたそうです。(飛行中は燃料計より腕時計で飛行機のガソリン残量を測るため、パイロットにとっては命を守る道具なのです。)

負傷により一時的に戦線を離れましたが、復帰後は飛行技術の腕を買われ飛行教官となり、愛機 JU88を中心にJU52、JU86、HE111の飛行指導にあたります。
1944年にドイツ国家元帥・ヘルマン・ゲーリングの名の元に『フリーガー・リング』(20,000時間以上100万キロ以上の飛行のパイロットに与えられた。指輪に1Mioが刻印。)を受けます。
さらに、その類稀な作戦遂行能力を称えられ第一級鉄十字賞を受章し、それらの功績により少尉になりました。

1945年9月2日(ジン氏29歳 になる1日前)終戦
終戦後、ドイツ軍は解散。民間人となったジン氏だがドイツ経済は破綻しており新しい生活基盤を確保することすら容易ではなかったそうです。しかし、空軍時代の戦友に時計の関係者がいたため、彼は運命的に時計職人の道を進むこととなりました。

1947年(ジン氏31歳)にMr. Baderと知り合い、『Basis-Uhren』という時計会社を設立しました。Basisという会社名は、バーダー(BA)とジン(SI)の略でした。
工場兼事務所はドイツフランクフルトに馬小屋を借りて、設立当初はフランクフルトに駐留の連合軍(主にアメリカ兵)のお土産としてドッグ・クロックと目覚まし時計を販売していました。非常に良く売れ、経営は軌道に乗り始めました。
敗戦の荒廃した時代。誰もが絶望の淵で喘いでいたドイツ。彼らのチャレンジ精神と、それによって成し得た事業の成功は人々の目に希望の光として写っていたかもしれません。

余談ですが、ジン氏は退役し、時計開発の道に進んだ後もパイロットだった頃のスピード感やスリルが忘れられず、また持ち前の機械好きが手伝って、車に夢中になっていきます。後のパリダカ・レースの元祖的なアフリカ縦断ラリーにフォルクスワーゲン・ビートルで出場し、なんと優勝しました。(アルジェ−ケープタウン、約18,000km)その頃の彼はまさに翔ぶが如くの走りで『シュネレー・ヘルムート』(いだ天・ヘルムート)の異名で呼ばれていました。ほかにも大小様々な大会で好成績を上げ、その実績から国際的なレーシングイベントでタイムキーパーとしてもよく指名されました。また、その頃のラリーの計測システムに不満があり、その経験は後の時計とストップウォッチの開発に大きく影響を与えたそうです。

1961年2月28日(ジン氏45歳)Sinn社設立。
歴戦のパイロットとしての経験に裏打ちされたジン氏の作り出す腕時計は、その視認性の高さ、性能の良さから非常に高い評価を受け、航空大手のコクピット用クロックも受注するようになりました。
ジン氏のコクピット用クロックはドイツ空軍機のトーネード、アルファジェットやルフトハンザ航空機にも搭載され、ドイツ国内でトップの技術を持つパイロット時計会社として認識されるようになっていきました。


1970年Sinn-155(手巻、フライバック・クロノグラフ) が旧・西ドイツ空軍用腕時計(パイロットウォッチ)に制式採用されました。
その頃、ある記者から「なんでこんな大きな時計を作っているのですか?」と聞かれたジン氏はこう言っています。『私は時計を作っているのではない。計測計器を作っているのだ。』と。これは『ドイツ偉人伝』という本に掲載された有名な一句。この本にはアインシュタインの言葉も載っています。
ちなみにこの頃、Sinnの腕時計はフランクフルト郊外にある空港でしか買うことができない、航空ファン御用達の逸品だったようです。

1985年10月30日~11月6日
ケネディ宇宙センターから発射されたNASAのスペースシャトル・チャレンジャー号は欧州宇宙機関が開発したスペースラブ(有人宇宙実験室)を宇宙へ打ち上げました。 
そのミッションで行われたスペースラブD1(ドイツ専用の実験室)に参加したドイツ人宇宙飛行士、ラインハルト・フラー氏が自費による一般購入にてSinn氏が開発したSinn-142.BSを着用し。Sinn-142.BSは人類史上初の宇宙で使用された自動巻クロノグラフとして選ばれたのです。
その際にフラー氏はSinn-142.BSは完璧な信頼性を示したと語っていました。

以上はSinn社がその時計作りの情熱を世に示した一端です。

1994年(ジン氏78歳)Sinn社の当時の副社長ローター・シュミット氏に売却。

1996年(ジン氏80歳)Jubilar Uhren社(現在のGUINAND)を創業。
同時にSinn社時代から時計製造の協力会社であったスイスのGUINAND watch社(1865年創業)を合併。『Chronosport』というブランド名で、Sinn時計哲学を込めたパイロットウォッチを作り始めました。


1997年(ジン氏81歳)『HS-81』ムーヴメントを開発。
2004年『WZU-5』を5年の歳月を掛け開発。販売開始。
WZU-5はジン氏のアイディアと30年来の相棒であり時計マイスターのディーター・メルケル氏とのコラボで完成。

2006年(ジン氏90歳)社名をJubilar Uhrenから 『GUINAND』に統一。
ビジネスパートナーであったハスラー氏に経営を任せ・・・


現在パイロット時代の経験と万感の思いを込め、「全力で今を生き抜く男たちのために」時計の本質的価値を追求した時計『GUINAND』を彼は作り続けています。

この記事を書くにあたり、私たちは彼に様々な質問をしました。
そして、その最後にジン氏にこんな問いかけをしました。

「ジン氏の時計には、他にはない強い想い(魂)が込められていると言うか、祈りのようなものを感じます。あなたは、なぜ今もなお時計を作り続けているのですか?」 
彼はこう答えました。

「時計作りは我が人生と我が情熱の形なのです。」